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咸臨丸の歴史




咸臨丸誕生の時代背景

 日本が鎖国政策で国内安定政権を続けている頃、
欧米諸国の科学技術の発達はめざましく
その最たるものとして蒸気機関が開発され、
世界中にその勢力を拡大していた。
当時既に日本も列強の進出に悩まされていたが
江戸幕府は頑に拒み続けていた。
1853(嘉永6)年6月、アメリカ東インド艦隊のペリー提督が
蒸気艦2隻を含む4隻の黒船で浦賀沖に現れた時、
その科学技術に対して日本人は大きな衝撃を受ける。
強大な軍事力の誇示による執拗な要求に対して
日本は翌年に不本意な日米和親条約を締結せざるを得なくなり、
このことが鎖国から開国への展開の契機となり、
日本は他国に対する防衛軍事力を持つことの必要性を認識する。
 

咸臨丸の誕生
                                                   提供/咸臨丸子孫の会
 
 
                                               提供/咸臨丸子孫の会

欧米諸国の開国要求に脅威を持った江戸幕府は、
ペリー提督が去るや、海軍の創設を決め、オランダに軍艦を発注する。
これが後の咸臨丸と朝陽丸である。
オランダの指導を受けながら、1855(安政2)年には、長崎に海軍伝習所を開設し、
本格的な海軍軍事力の強化に取り組む。
咸臨丸は、オランダのロッテルダムを流れるレタ川の上流にある
キンデルダイクのホップ・スミット造船所で建造され、
発注してから3年後の1857(安政4)年2月に完成した。
その後、蒸気機関や軍装備、艤装工事が行われ、
3月にオランダを出港し、喜望峰を経て、9月に長崎に入港する。
オランダで建造中は「ヤパン」という名で呼ばれ、
日本に引き渡された後に咸臨丸と命名された。
日本初の海軍の軍艦としての咸臨丸の誕生である。
命名の由来は、
「君臣互いに親しみ厚く、情を持って互いに協力し合う」という中国の古典から取られた。
その後、長崎海軍伝習所の練習艦として、後の朝陽丸とともに、海軍技術の強化を担う。


咸臨丸の栄光

咸臨丸が建造されたのと同時期に、多くの艦船が配備され、
日本は鎖国政策を取りながらも、開国の是非の中で悶々としていた。


時に1858(安政5)年、
井伊直弼が独断で不利な日米通商条約を締結するや、
天皇制のもとづく尊皇攘夷派と幕府派が対立し、
薩摩・長州藩の勢力拡大とともに全国に飛び火し、後の戊辰戦争に発展した。

この条約の批准書をワシントンで交換するために、
日本から使節団を派遣することとなり、
正使の新見豊前守一行はアメリカ艦船ポーハタン号で行くことが決定。
その随伴艦として、咸臨丸が選定される。

 

咸臨丸には、
軍艦奉行木村摂津守、教授方頭取勝麟太郎(海舟)を始め、日本人が96人、
ブルック大尉以下11名のアメリカ人の107名が乗り込み、。
1860(安政7)年1月19日、浦賀港を出港する。
荒海の恐怖、疲労、船酔い、外国人との諍い、水不足など、様々な苦難を乗り越えて
37日間の航海を終えて、2月26日にサンフランシスコに到着した。
到着するや大歓迎を受けたが、
52日間の滞在中見るもの聞くもの全てが大きなカルチャーショックであった。

航海中に多くの水夫(かこ)が病に倒れ、サンフランシスコで3名が帰らぬ人となった。
旗艦のポーハタン号は3月9日に嵐のために遅れて到着、
修理の後パナマを経てワシントンに向けて出港する。
咸臨丸はその後船体の大規模な修理を行い、
病人と付添人の9名を残して、3月19日にサンフランシスコを出港した。
帰途は比較的穏やかな日が多く、日本人のみの手によって航海を続け、
途中ホノルルを経由して、46日間の航海を経て、5月5日に浦賀港へ投錨した。
近代国家形成の幕開けとなった太平洋横断の快挙はこうしてなし遂げられた。


咸臨丸の彷徨

太平洋横断後の咸臨丸は、
神奈川や横浜港の警護の役にあたり、
1861(万延2)年には、ロシアによる対馬の一部占領に対する抗議活動、
翌年には、小笠原の領有権確保のための調査活動、
榎本武揚などオランダ留学生を長崎に運ぶ任務も行う。
その後も品川と神奈川を要人を乗せたり、軍艦操練所の艦艇として使用されたが、
船体の損傷が激しく、
1867(慶応3)年には機関を除去され、軍艦としての役目を終え、輸送船となる。
その年に大政奉還がなされ、ますます世情は混沌とし、
1868(慶応4)1月13日、
薩長軍と幕府軍が鳥羽・伏見で衝突し、戊辰戦争が始まり、
薩長軍のもとに4月11日江戸城が無血開城された。

 
 

旧幕府軍の艦隊を率いていた榎本武揚は
これら一連の幕府軍の対応を不服とし、幕府の家臣を守るために
軍艦の開陽丸、回天・蟠龍丸・千代田形、
運送船の咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美加保丸の8隻と
旧幕臣2500名を従えて<8月19日夜半品川沖から北海道へ向けて出港する。
その時戊辰戦争の舞台は東北に移り、壮絶な戦いが繰り広げられていた。
奥羽越列藩同盟を形成しながらも形勢不利になった東北の旧幕府軍は
榎本武揚に再三援護を求めていた。
榎本武揚は北海道に幕臣の新天地を夢見ていたにちがいない。
既に帆船となっていた咸臨丸は回天に曳航されていたが、
観音崎で座礁し、翌日再び出港したものの、今度は房総沖で暴風雨に遭遇し、
ついに曳綱も切れ咸臨丸は海上を漂流する。
このとき咸臨丸はマストを1本切り倒したという。
9月2日に清水港に入港したが、18日新政府軍の襲撃を受けて
乗組員の大多数が死傷し、船体は拿捕され、
ついに咸臨丸の命も終わったかのようにみえた。

東北から北海道に舞台を移した戊辰戦争は
1869(明治2)年箱館五稜郭の開城でその終焉を迎えた。
勝利した新政府軍は、北海道開拓のための開拓使を設置し、
人や物資の輸送船として咸臨丸もその役を担う。

こうして咸臨丸の晩年は、幕末維新の歴史の荒波に呑み込まれ
ひたすら彷徨い歩く運命を背負っていた。

そして咸臨丸最後の時は刻々と近づいていく。 

 咸臨丸の最後と白石の人々

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