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咸臨丸とサラキ岬に夢みる会 活動の歩み |
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『咸臨丸とサラキ岬のに夢みる会』の活動は 会員一人ひとりが大きな夢と志のもとに 多くの方々のボランティアによって取り組まれています。 平成21年度 平成20年度 平成19年度 平成18年度 平成17年度 平成16年度 平成15年度 平成14年度 平成13年度 |
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平成21(2009)年度 | 他の地域と連携して、さらに前進するために |
『咸臨丸とサラキ岬に夢みる会』が結成されて満5年となり、これまでの活動を今一度振り返る。 チューリップの植栽を中心に、咸臨丸の歴史性を高め、観光交流拠点づくりを目指して走ってきた。 私たちの思いは地域の誇りづくり・・・それがまちづくりの基本だからだ。 6回目のチューリップフェアは、晴天にも恵まれ、広大な駐車スペースが埋まるほどの人出、 サラキ岬ではいろいろなものが楽しめるようになった。 観光客もゆっくりとくつろいでいる。サラキ岬を目的に訪れる人も多くなった。 さらに入口部分の整備がなされ、年間を通しての利用者も増加している。 四季を通して歓迎するために、つつじ・あじさい・アイリス・水仙など、約3千本を植栽する。 いつサラキに訪れても、どこかで何気なく花が迎えてくれる・・・・そんな人に優しい場所にしたい。 他地域との交流も深まり、長崎への訪問交流、 咸臨丸最後の乗船者である白石片倉小十郎の生地・白石市の訪問交流が初めて行なわれた他、 横須賀からは咸臨丸祭りへの視察団が来町した。 平成23年は咸臨丸が終焉してから140年を迎える。 私たちは、全国から咸臨丸関係者が集う『咸臨丸まちづくりサミット(仮称)』の開催を夢みている。 私たちのまちづくりの道は果てしなく続いていく。 |
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平成20(2008)年度 | 交流観光拠点としての機能充実に向けて |
サラキ岬を観光交流拠点とすることは、他地域との連携が要である。 拠点整備が整うと同時に道南一帯をいかに連携させるかの模索が始まる。 太陽北海道地域づくり残断の支援を得て、オランダ風車形休憩所を製作する。 5万球になったチューリップが満開の中で行なわれチューリップフェアは ガソリン高騰の影響なのか少々出足が落ち込む・・・残念無念。 それでも、サラキ岬には春のみではなく年間を通して立ち寄る人が多くなってきた。 知名度が少しずつ高まってきたのか、利用し易くなったためか、いずれにしても嬉しい限りである。 そのために、四季を通して楽しんでもらう取組が始まる。 チューリップ以外にも、つつじ・あじさい・芝桜・ハマナスなど様々な花木の植栽を行なう。 新幹線トンネル工事業者の協力で広大な駐車スペースが整備された他、 丘陵地部分の整備や花壇づくり、旧看板の改修移設など、サラキ岬全体の環境整備がなされた。 サラキ岬からの眺望の素晴らしさを体感してもらうために、パノラマ看板も設置。 子孫の会のお世話でオランダ大使館との関わりも生まれ、サラキ岬には様々な団体やツアーが訪れる。 8月には、榎本武揚没後百周年で就航した帆船あこがれが、咸臨丸に模してサラキ沖を帆走し、 その思いを新たにした。 |
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平成19(2007)年度 | 人と人のふれ合い、交流の輪が広がって |
4月、ついに念願の咸臨丸モニュメントが完成。 船体は連絡船の救命艇、実際の設計図をもとに約半年ををかけて地元の西村造船所さんが製作。 技術はもちろんのこと、心意気があればここまで出来るのかと誰もが感動する。 サラキ岬の中央広場にはイベントステージと咸臨丸モニュメントの設置台を製作する。 生憎の雨風の中での搬送、設置。136年振りに咸臨丸が堂々とサラキ岬に蘇る。 待望の電源の設置、夜間照明も可能になる。 充分とはいえないが、交流観光拠点としての条件が整い、町内外に知られるようになった。 太陽北海道地域づくり財団や民間ボランティアの協力を得て、大型の入口看板も完成。 様々に環境が整備されたなかで行なわれた『第4回チューリップフェア』は大盛況。 4万球約80種のチューリップが、堂々と蘇った咸臨丸が、勇壮に波うつ津軽の海が観光客を迎える。 数年前の殺伐としたサラキ岬から誰が想像できただろうか。 「こんなチューリップがあるの」・・・チューリップには約800種あるという。 サラキのチューリップはどこにもない珍しい品種が多い。 「きこない咸臨丸祭り」も少しずつ定着し、咸臨丸を核としたまちづくり活動の重さを感じる。 咸臨丸の学びは、その時代背景である幕末や明治維新にも関心が広がり、深まっていった。 |
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平成18(2006)年度 | 意欲と誇りと夢をもつまちづくりへ向かって |
『咸臨丸終焉記念碑』の製作が始まる。これ又材料から全てがボランティア。 碑文は子孫の会に依頼する。 天候不順のためかチューリップは多少遅れて満開となるが、チューリップ祭りに併せて完成式典を行なう。 マスコミにも報道され、多くの人々が立ち寄るようになる。 錨の調査が本格化し、東京大学や日本海事史学会との関わりが生まれる。 「サラキ岬に咸臨丸を造ってほしい」と、自らの持ち船の寄贈を受け、 地元の船大工さんの協力を得て製作を開始する。 第四期目の花壇造成、入口道路の拡充整備、水道の増設など、基盤整備も整ってきた。 この頃からサラキ岬の交流観光拠点としての全体像が見えてきた。 夢の実現は果てしなく遠いが、確実に一歩一歩近づいていることを確かめ合う。 子どもたちにも咸臨丸とサラキ岬が浸透してきた。 小学4年生が、総合学習で「私たちの町の宝物」と題して『咸臨丸とサラキ岬をテーマに研究発表が行なわれた。 私たちよりももっと大きな夢を描いていたことに驚く。 喜びと同時に負けてはならない・・・私たちの活動に対する思いを強くした。 |
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平成17(2005)年度 | 咸臨丸とサラキ岬を核として自らが行動するまちづくりへ |
4月には初の総会・・・・会員一同は意気揚々、様々な活動が提案・議論される。 咸臨丸とサラキ岬を説明する史跡看板が設置される。これも材料から製作、設置まで全て企業ボランティアだ。 咸臨丸最後の乗船者・白石片倉小十郎家臣団401名の氏名も掲載する。 見事な2万球のチューリップを楽しみながら、2回目のチューリップ祭りを開催。 8月の夏祭りが、咸臨丸のテーマとする『きこない咸臨丸まつり』に変身して開催。 多くの咸臨丸子孫の会の方々も来町し、新たなまちづくりの歴史が始まる。 長く埋もれていた咸臨丸のものと思われる錨が一人の研究者の目に止まる。 夏にはマリーゴールドも植栽し、少しずつ咸臨丸とサラキ岬が町内外に知れわたるようになる。 新たな花壇づくりや水道の環境整備を行なう。 咸臨丸とサラキ岬の素晴らしさを町内外に知らしめる活動も始まり、 会員も300名近くになり様々な夢が育まれていく。 江差の開陽丸友の会など、様々な団体や人との交流も始まり、 咸臨丸の裾野の広さに驚かされる。 咸臨丸に因んだ特産品開発のチャレンジも始まる。 |
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平成16(2004)年度 | 『咸臨丸とサラキ岬に夢みる会』の結成を機軸に |
5月、1万球のチューリップが見事に咲き誇った。 あの殺伐としたサラキの大地に様々な夢を包み込んだ色とりどりのチューリップが咲き誇っている。 名称看板も設置し、私たちのみならず、道行く人がサラキ岬を心に止めるようになった。 初の』チューリップ祭り』がささやかに開催された。 子孫の会のお世話で伝統ある横須賀の咸臨丸フェスティバルにも参加することができた。 咸臨丸と歴史の重さとチューリップの美しさが、私たちの心にある小さい夢を揺り動かした。 今はまだ小さい・・・・このサラキの大地に私たちのまちづくりの夢を大きく膨らませることができるかもしれない。 10月には、自ら考えて行動する『咸臨丸とサラキ岬に夢みる会』が結成される。 更に第二期の花壇が造成され、2万球のチューリップが植栽される。 咸臨丸の歴史を学ぶまちづくり講座も始まる。学べば学ぶほどに奥が深い歴史がある。 咸臨丸子孫の会の総会(東京)にも初参加し、様々な人々とのふれ合いも始まった。 不安と期待のなかでの旅立ち・・・私たちの咸臨丸はどこへゆくのか。 |
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平成15(2003)年度 | 咸臨丸子孫の会との出逢い・・そして咸臨丸の偉業 |
サラキ岬沿いに国道228号があり、その国道に平行してJR津軽海峡線・江差線が走っている。 偶然列車に乗り合わせた一人の乗客が声をあげた。「あっ、なんだ、あれは」 その乗客は「咸臨丸ここに眠る」と記された古い木造の看板を目にしたのである。 この人が咸臨丸子孫の会の小杉伸一氏(小杉雅之進の子孫)であった。 『咸臨丸子孫の会』は、咸臨丸の太平洋横断時の乗組員の子孫や咸臨丸研究者の会である。 平成15年10月、その子孫の会の方々が初めて咸臨丸終焉の地・サラキ岬を訪れた。 雑草をかき分けて岬の先端までようやくたどり着く。目の前には岩礁だらけの磯浜が広がっている。 同行された合田一道氏は沖合を指さして「あそこが咸臨丸が沈んだと思われる所です」と。 誰もが「こんな所で」「あの栄光の咸臨丸がこんな人知れず場所で」と驚きの思いで沖合を見つめている。 この出逢いから子孫の会との交流が始まり、 また松本善之氏も来町され、私たちの活動が大きく展開される契機となった。 先ずはチューリップの1万球の植栽を目指し、 そのための花壇造成が多くの町民や企業のボランティアによって始まる。 地元企業の方々(清水工業・手塚産業・山本建築工事店など)が私たちの思いに賛同されご協力をいただいた。 このサラキがどうなるのか、誰もが不安の思いを抱きながら、 来春の開花を夢みてチューリップの球根が植栽された。 |
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平成14(2002年度 | 荒れ果てた大地に咲くチューリップに夢を抱いて |
咸臨丸は、江戸幕府が諸外国の脅威への海防のために1857年オランダで建造された。 日本最初の軍艦であり、1860年太平洋横断をなし遂げた。 合田氏のご縁で、オランダ北海道人会の松本善之氏(当時オランダ在住)から、チューリップの球根二千個が贈られた。 「オランダで誕生した歴史的価値の高い咸臨丸が北海道木古内町で最後を迎えたことは知らなかった・・・ オランダの国花であるチューリップを終焉の地に植えてほしい」と、松本氏の願いが添えられていた。 5月、サラキの広大な荒れ地の一画にチューリップは厳寒の海風に耐えて見事に花開いた。 殺伐とした荒れ地に美しいチューリップ、道行く人はその光景を異様に思ったにちがいない。 しかし、殺伐とした大地なればこそ静かに咲く花の強さは人々の心を揺り動かした。 「これなら私たちにもできる」「ここから始めよう」「この荒涼たる大地をいつか美しい花で埋めつくそう」 「そして、咸臨丸をいつかこのサラキの大地に蘇らせよう」・・・誰もが夢を抱いた瞬間である。 まちづくりがそこに生活する人々の心を満たすものであるなら、自らの町に対する夢を持つことを忘れてはならない。 サラキから遠く見える山々と海を赤々と照らしながら夕陽が沈んでいく。 |
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平成13(2001)年度 | 合田一道氏・松本善之氏との出逢いから |
当時、サラキ岬は「咸臨丸ここに眠る」の看板1枚があるだけの荒涼の大地であった。 ここに日本近代化の一役を担った咸臨丸が沈んでいる史実は町民でも少なかった。 津軽海峡線が開業して間もない頃(平成3年)、新たなまちづくりの一つとして 木古内町観光ビジョン『咸臨丸と明治維新』がまとめられたが、長い間卓上に置かれたままだった。 「咸臨丸、栄光と悲劇の5000日』を著された作家・合田一道氏が来町されたのを契機に 咸臨丸と木古内の関わりが再び浮上してきた。 「咸臨丸でまちおこしはできないか」との合田氏の声に、私たちの心は揺り動かされた。 「歴史遺産・咸臨丸を核とした一つのまちづくり」のプロローグである。 |
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木古内町観光協会 KIKONAI TOURIST ASSOCIATION
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